ペリーの来航
4隻の黒船1853(嘉永6)年6月3日、浦賀沖に、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが率いる4隻の軍艦が現れた。浦賀奉行の早馬は「黒船現わる」の知らせをもって江戸に走った。急ぎ駆けつけた武士によって、海岸線は警備され、夜にはかがり火をたいて、黒船の動きを監視した。今までにも、外国船は姿を見せたことはあったが、今回のように艦隊を組み、砲門を開き、いつでも戦える状態で現われたことはなかった。それに加え、黒々とした蒸気船の巨体は、見る人々を庄倒してしまった。
アメリカのアジア進出
アメリカでは19世紀にはいって工業が発達し、機械による生産が増大した。アメリカにおける産業の発達は、海外市場を求めてアジア大陸への進出を促した。しかし、アジアの中心、中国へ進出するためには、大西洋を横断し、アフリカの南端を回り、インド洋を経由しなければならず、イギリスなどと対抗するには地理的にも不利な条件であった。当時、アメリカの太平洋岸は捕鯨漁場として問かれていたこともあって、太平洋を直接横断する航路が考えられるようになった。だが、当時の船では途中で、どうしても石炭や水などの補給をしなければならなかった。太平洋岸の中継地として、日本が最良の場所であった。使節ペリーの任務は鎖国政策をとっている日本の政治を変えさせ、港を開かせることにあった。
幕府の態度
ペリーの来航について幕府は長崎のオランダ商館長から知らされていたが鎖国政策を変えることはしなかった。実際にペリーが浦賀沖に来航しても、交渉地である長崎へ回航することを求めた。しかし、ペリーは強い態度を示し、交渉中も東京湾の測量を行い、金沢の小柴沖まで船を進め、交渉が進展しないとみればいつでも艦隊を江戸へ直航させる構えを示して幕府の決断を迫った。
一方、幕府も戦争に備えて、急いで諸大名に対して東京湾周辺の警備を命じた。本牧周辺を熊本藩、神奈川を平戸藩、金沢を地元の大名米倉昌寿の金沢(六浦)藩がそれぞれ守りを固め、さらにその翌年、本牧御備場を鳥取藩、横浜村を小倉、松代両港、生麦・鶴見周辺を明石藩が警備することになった。このように諸大名を動員し、大規模な警備に当たったことは今までになかったことであった。
国書の受理
大統領の国書を受理させようとするペリーの強い態度に押された幕府は、ついに浦賀の久里浜でそれを受けることを認めた。1853(嘉永6)年6月9日、急いで設けられた応接所で、アメリカ大統領フィルモアの国書が、幕府の浦賀奉行に渡された。国書の内容はアメリカとの友好、貿易、石炭、食糧の補給と遭難者の保護を求めるものであった。幕府はあくまでも正式交渉地は長崎であり、浦賀は臨時の場であることを述べて、国書に関する回答はできないという態度をとった。ペリーも国書の受理が行われたことで初期の目的を達したと判断し、来年その回答を受け取りに来航することを伝えて日本を離れた。