生糸と横浜

 

 生糸改会社

  生糸貿易が盛んとなり、輸出が伸びるにつれて、生糸の粗製濫造が行われ品質の悪いものが出てきました。このことは外国商人によっても指摘され、そのままでは日本の生糸の評判を落し輸出に悪影響が出ることが心配されてきました。1869(明治2)年、粗悪品取締りの規制の必要性が話題となりました。陸奥宗光は生糸改会社をつくる必要を痛感して全国の主な生糸商人を集めて相談しました。その結果、1873(明治6)年5月全国のモデルとして横浜生糸改会社がつくられましたが、会社といっても実態は生糸売込商の同業組合であり、この会社の設立に対して外国側は反対の立場をとり始めました。それは検査とは別に生糸商人が政府と結んで一つにまとまって商売をすることは、外国商人にとって不利になるからでした。貿易の自由を侵し条約に違反するという外国商人とこれによって商業上の権利を伸ばそうとする日本商人との対立は深くなっていきました。

 

 連合生糸荷預所事件

  この事件とは横浜生糸売込業者が結束して生糸取引き上の悪い慣習を打破って、商業上の権利の回復を図ったため外国商人とぶつかった事件のことです。1880(明治13)年原善三郎、茂木惣兵衛、渋沢喜作の3名から大蔵卿にあてて「連合生糸荷預所設立願」が出されました。開港以来、外国商人は、日本人が取引き上の知識が足りないのと、政治上の治外法権の特権をもっていることを利用して、わがままな行動が多く自分たちの利益ばかりを図ってきた。これまで生糸の取引きは「拝見」などの制度にみられるように一方的な方法で行われていました。売込商が商品を外国商館へ売り込む場合、看貫科のほか荷造運搬の諸費用まで負担させられ、その上、外国商人の一方的な都合で支払期日が遅れたり、時には解約になることもありました。また引取商の場合は外国商人に前金を払って商品を受け取・り、引取り運賃をこちらで払うというような商慣習がありました。このような日本商人にとって不都合な方法をやめ、取引きの正常化を図るため荷預所を設置しようといいうのです。これが成功すれば横浜へ入る生糸は独占的に荷預所へ集められ、加盟する売込問屋の地位は上がり、生糸の流通機構を押さえることができます。これまで、一部の売込商によって行なわれていた掛け売りや諸雑費の支払いも断ることができます。外国商人から強い反対があるだろうということは、当初から予想されていました。この願いは1881(明治14)年三井物産と三菱の主宰する貿易商会が加わって再提出されました。その年8月株主総会で頭取に渋沢喜作を選び荷預所役員を決めました。9月内外の人々の注目するなかで荷預所は開業の第一歩を踏み出しました。一切の取引きを拒否するなど外国商人の抵抗は激しかったです。10月になると外国商人と売込商の対立は激化し、国民の関心は荷預所に注がれ新聞も盛んに事件を報道しました。

 山梨・長野などを中心とする荷主側も商権回復のため荷預所を強力に支え、取引きが拒絶されてからは直輸出を提唱しました。この間日本側では渋沢栄一、益田孝、外国商人側では横浜外国人商業会議所会頭ウイルキンとの間に妥協工作が進められました。ウイルキンは個人的に日本側に対して、共同倉庫設置を一応認め、それまで現品を外国商人の倉庫に搬入し検査の上、代価支払いその他を記入した約定書を交換するという妥協案を送ってきました。日本側も一般売込商の閏には拝見などの不適当な商慣習を全廃すること、売込商の店頭取引を主張することなど荷預所を解消するような方向の意見が有力でしたが、結局有力売込商の意見が勝ちウイルキン案が受け入れられました。

 外国商人の中ではウイルキンの単独和解に反対するような動きもありましたが、結局ウイルキン案が承認され、11月から取引きが再開され、ここに内外商人間の和解が成立しました。

 その結果、旧来の取引き上の悪い慣習はいくらか改められましたが、契約後に破談するなどの違反が続き、また共同倉庫も不況などの関係から設立されずに終わってしまいました。この事件は横浜の有力貿易商の力を伸ばす上で効果はありましたが、商慣習の改善という面では完全な成功とはいえませんでした。

 

 横浜生糸検査所の誕生

  生糸検査所ができたのは1896(明治29)年のことでした。初め横浜、神戸に設立されましたが、神戸のものは1901(明治34)年に閉鎖されました。フランスから製糸業や生糸検査の方法を学び、検査機械を買い入れて事業を始めましたが、利用者は少ないままでした。1925(大正14)年、広大な庁舎や倉庫をつくり、1927(昭和2)年からは輸出生糸のすべてに対して強制的に正量検査を行うようになりました。これによって品位が高まり安心して取引きができるようになりました。