吉田勘兵衛
吉田新田は戸部・太田・蒔田・堀ノ内・中・横浜の諸相が囲む入り海を、吉田勘兵衛が埋め立てたものです。
吉田勘兵衛良信は1611(慶長16)年摂津国能勢(大阪府豊能郡能勢町)に生まれました。このときは江戸幕府二代将軍秀忠の時代で、初代の家康が上京して二条城で豊臣秀頼と会見した年でもあります。そして、その四年後の1615(元和元)年、家康は大阪夏の陣によって豊臣家を滅亡させ天下は徳川幕府のものになったのです。
勘兵衛の生まれた能勢は大阪の西北に位置する山間の地で少年時代に父を亡くした彼がどのような幼少期を過ごしたかは明らかではないのですが、大阪城を築いた秀吉の時代から開発が進み江戸幕府によってさらに商業経済の中心として賑わうようになった大阪を見て、商人として活躍する志と腕を磨いていたと推測されます。彼はついに1634(寛永11)年、江戸に出て木材石材商を営みました。ときは三代将軍家光の時代で、幕府の基盤もようやく安泰となって江戸は日に日に繁栄を増していた時代でした。
勘兵衛は稀に見る勤倹力行の士で、信義に厚くかつ浪花商人の血を引いていたため商売も巧みでした。江戸の店は勘兵衛の人柄と相俟って申し分無い発展を続け、開業十年三十歳半ばで江戸城修築の御用木材を承り、諸侯お出入りの豪商にのし上がりました。幕府への納材は公儀御用であるため、どれ程の利益を得ても営業所得には一文の税もかからなかったといわれています。しかし、公儀普請は博打だといわれる程大幅な利益も出ることも多い反面、仕入れ時より相場が下落すれば欠損を覚悟の安値で行わなければならないこともありました。幕府の御用木材の伐り出しは主に幕府直轄の「御林」からですが、幕府の「御林」は全国に散在しており、そのなかで特に大きな「御林」からの出材は江戸時代の初めより元和まで(1615〜1623)は、木曽御林(元和以降は尾張藩の御林となる)より元和から元禄(1688〜1703)までは伊那の御林からの伐り出しが主でした。
ただ幕府は全国を支配する最高権力者ですから、必要とあらば御林以外の山からも強制的に伐り出すことはできました。このように幕府の必要材を山から伐り出して目的地まで運ぶ「御用木仕出し」には、幕府自身行う「御直仕出し」と商人に請負わせる「商人請負仕出し」との両様があり、元禄時代には後者の仕出し法が盛んに採用されたようです。
勘兵衛より少し遅れて元禄年間材木商として活躍した奈良屋茂左衛門は、名古屋の材木商神戸屋分左衛門と手を組んで木曽山や飛騨山から材木を伐り出しました。また同じ頃、豪商の名をほしいままにした紀伊国屋文左衛門は、幕府の御用木請負仕出しの際、駿府の豪商松木新左衛門やその弟の松木郷蔵と手を組んで駿州千頭山から伐り出しています。十七世紀ごろまでは全国各地の城下町建設が一段落したのですが、元禄時代には各城下町がさらに拡大発展したため、土木建設工事に必要な材木の需要が大きくなりました。家綱のあと五代将軍となった綱吉の元禄政治も、材木の需要を大いに促す要因となりました。綱吉は従来の武断政治を退け、文治政治を積極的に推進するため儒学を振興したり、仏教を篤く信奉したりして寺院や学問所の建設に力を注いだのです。その結果、ものすごい建築ブームが巻き起こったのです。当時の建築用材の基本は材木ですから、ここに一大出材ブームが現出し、材木を扱う商人が時流に便乗して大いに儲けたのでした。
奈良屋茂左衛門は1683(天和三)年、五月の日光大地震により東照宮が倒壊した際、その修復普請用材の調達を一手に請負って巨利を得、紀伊国屋文左衛門は1698(元禄十一)年、江戸上野の寛永寺根本中堂の造営用材の調達を請負って巨萬の利益を得たと伝えられています。このように大建設工事がいくつも行われると、たとえ一つのお寺をつくるにも建物は本堂だけでなく塔をはじめ多くの付属坊院など大迦藍の建設を要したものですから、莫大な費用と材料が必要だったのです。
このようにして材木商人は競って幕府に納める材木の御用請負をしたがるわけですが、そう簡単な手続きで請負業者にはなれなかったのです。それには入札制度があり、当時既に裏工作が必要で、表向きでいくら安い値段で入札してもその人には絶対に落札されぬカラクリになっていたのです。そのカラクリは、入札する前にあらかじめ役人に保証金のような「たて物」を差し出して一種の賄賂の額を申告し、入札する前にすでに保証金の額と礼金(成功報酬)の申告額の多い少ないで請負業者は内定されているのです。そういうことで役人と一部特定の材木商との間には不正な結託が生じていたのです。
こうしたカラクリをうまく利用して役人や政治家にとり入り一攫千金の利権にありついたのが綱吉時代の元禄政治といわれています。この時代は、利権を獲得した材木商が大儲けをしただけでなく、建設ブームに便乗した役人や政治家も賄賂を取り込み大いに私腹を肥やしたといわれています。一方勘兵衛は、紀文や奈良茂と異なり権力と結びつくことを極力避けて、儲けた金を畢生の悲願である埋立事業につぎ込んであくまでも公共の為、一般の民衆が相手であるという立場を貫いたのです。
幕府の御用材を扱う問屋は幕府の必要とする材木を購入、販売するのを主として民間の需要は賄わないのです。材木の扱い高が全く違からです。これに対し町方一般の建築材を扱う問屋は川辺材問屋といって区別されていました。江戸の材木商仲間には、深川木場問屋、板材木熊野問屋、川辺一番組古問屋がありました。深川と熊野とは、公儀、大名家御用材を扱い、川辺は町家の用材を扱うものでした。川辺材は利根川、荒川、多摩川などを利用して上流から運ばれ巨木は稀でおおかた細手の穂付丸太、切り小丸太でした。これらの材木は町方の建築材料として四辺を張り、柱、桁などの小屋材に用いられたのです。江戸の町家は九尺二間と呼ばれるような長屋が多く、巨木や上質の四方無地などの材木を使う贅沢とは縁が遠かったのです。
一方江戸城の修築は殆ど諸大名の御手伝普請によって行われたのですが、このため各大名は莫大な費用と労役を課せられました。江戸城の総講は、武家地、寺社地、町地が配された外郭と狭義の城内である内郭とに大別されます。江戸城は表、大奥あわせて一万一三七三坪、西丸殿舎も一万一〇〇〇坪余あり、これらの殿舎は工事期間が毎回十月が定例で、表向殿舎は幕府作事方が担当し、大奥はすべて小普請方が担当しました。また、江戸城外郭、石垣、天守台などは、各大名に分担して行わせました。このため各大名は、普請奉行と人足を尾張や伊豆などに派遣して木・石材を採取させ運搬したのです。また江戸市中の町地は町奉行支配、寺社地は寺社奉行支配、武家地は大目付・目付支配というように支配系統が異なっていました。各大名は上屋敷のほか、中・下屋敷の両方を保有するとは限らなかったが、下屋敷を二つも持つものもありました。江戸の町数が八百八町というのは誇張ではなかったわけです。これらの町並が江戸城はじめ諸大名家ならびに江戸市中をなめまわした大火は枚挙に暇がありません。それは家康(慶長)秀忠(慶長・元和)家光(元和・寛永・慶安)家綱(承応・明暦・万治・寛文・延宝)綱吉(延宝・天和・元禄)の1600年代は、江戸に大火・大地震が頻発した年であった。江戸城の修築は殆ど諸大名の御手伝普請で諸大名が幕府から公認された朱印高をもととして賊課されたものでした。普請に際して、幕府からその費用の一部として金員が頒かることもあったのですが、それを上廻る負担金は巨額でした。しかも1600年代前後約五十年間に行われた数次にわたる大工事についてみるならば、そのそれぞれの工事は意外なほどの短期間で完成されていることがわかる。この際、莫大な物量の投入が行われたことと、また城郭という軍事施設の建設という性格から工事の短期間終了が要請されたことはいうまでもありませんが、一面において築城の縄張りそのものが地形の確実な把握とその十分な利用の上に行われたこともまた工事の完成を早めた大きな原因の一つであったといえましょう。 しかし徳川も元和時代を経て、世は泰平を謳歌する時代になるにしたがい江戸城は徳川氏の居城としての本来の軍事的、戦略的性格を次第に減じ、幕藩体制統一の本拠としてわが国の政治、行政の中枢部としての性格を強めていったのです。それにつれて内部の役割も城郭そのものが幕府の官庁ともいうべき殿舎の地として使用されるように変わっていったのです。 また西丸に付随した吹上の場合、御三家はじめ親藩、譜代の有力大名が邸宅を構え、文字どおり徳川家の藩屏としてその役割を果たしていました。西丸下は日比谷入江を埋め立てた場所であり、ここは大手門にも西丸大手門にも近く、登城に便利であるという関係から幕府の高級官僚の官邸地帯としての性格を与えられました。すなわち老中、若年寄などの閣僚クラスの者がその職に任命されると、西丸下の邸地に移転を命じられるのが常でした。このように西丸下は江戸城が中央政庁であるということを最もよく反映した地域であったともいえます。また外郭の範囲の大部分が武家地であり、現在の丸の内・霞ヶ関・永田町一帯は主として大名屋敷地帯であり、番町(当時は九段上までの総称)から駿河台の東側、昌平橋(筋違橋門)から神田橋を結ぶ線までは、ことごとく旗本屋敷でした。この中で江戸時代を通じて町人の居住を許された町屋はわずかに麹町通りの麹町一〜十丁目と九段中坂(飯田町)にあるだけでした。
勘兵衛が時の将軍家光から江戸城の城郭を修理するに当り、木材・石材の御用達を命ぜられたり、参勤交代制度の確立によって、各大名屋敷の建設などに参画できるようになったのは、生来の勤勉カ行、鋭意家業に精励し、一大富豪になったことはいうまでもありません。しかし、その裏には関ヶ原の役で家康に従い、偉功を奏して旧領を与えられ能勢城主となった能勢摂津守頼次の次男頼高の子で勘兵衛の故郷、摂津国歌垣の城主が大きな働きをするのです。能勢庄左衛門頼春(妙法寺過去帳に圓通院殿覚庵日皎居士と記載あり)や頼次の次女で家光や家綱に老女近江局として仕えた旧主能勢一族の口添えや、後に吉田新田の干拓を祈願して勘兵衛とともに外護を寄せ、千住中村の地に開創した運千山自性寺の開基と称せられる安藤伊賀守重元の兄で高崎藩五万六千石の二代藩主安藤伊勢守重長が西城の石垣修理をはじめ江戸城二の丸修理の奉行をつとめたことから勘兵衛との親交が生まれ、重元もまた肝胆相照す交友をつづけたのです。重長、重元の父重信は慶長から元和まで老中をつとめ、重長もまた寛永十二年より明暦三年まで二十二年間も寺社奉行をつとめるなど幕閣に多大の功績がありました。
勘兵衛は旧藩主や幕府重臣の引立てもあって着実に業績を拡大していったが、1650(慶安三)年三月の江戸の大地震により、木・石材の販売で巨利を得、その巨利をもって、かねて念願の干拓事業を思い立ち、初め隅田川沿いの湿地帯、千住中村の音無川流域の湿原を干拓しました。勘兵衛は木材・石材の販売だけでなく農業経営にも人並みすぐれた才を見せ、南千住に開いた新田からは数年のうちに七、八百石の収穫を上げるに至りました。江戸幕府は、高千石を超えた地主には、社の建立を許すという布告を出していました。千石に悲願をかけて年ごとに資力を没入していったのですが、千住の地は周囲を他家の所有地に囲まれており千石の悲願は不可能と思われました。しかし彼はこの実績をもとに幕府に新田開発を請願したのです。しかし、隅田川(荒川)沿岸のとくに江戸府内側は奥州外様大名の防備にあてられた重要地帯であるため、幕府の許可がおりませんでした。一大富豪となった勘兵衛の畢生の願いは、千石の収穫のある新田の開発であったため適地を他に求めなければならなかったのです。尾張、飛騨、信州、木曽、遠州などの木・石材の買付先や、しばしば東海道を辿って旅をした箱根なども街道筋は家や田畑も整然と並んで食い入る余地はなさそうに思われました。街道を外れて鎌倉や金沢の地続きをさまよい、ある日彼がたどり着いたのは横浜村だったのです。 汀に立った勘兵衛は、まず州乾湾の明媚な風向きに心惹かれました。細長く突出した砂州と整然と並ぶ田畑、松の緑と点綴する農家の姿が地上の楽園を思わせるたたずまいでした。漁どる白帆が藍色の波に映え、州乾岬の松籟が爽やかに鳴りわたる朱色の弁天の鳥居と社が夢のような倒影を水に投げかける。湾は奥深く食い込み、水天彷彿の彼方に富士の姿が気高い。陶然と佇む勘兵衛の胸のうちが清々としました。こここそ平和の里、神のおわす地に違いない。日本橋の繁栄や変化に乏しい千住の新田が色あせたものに思われたことでしょう。
勘兵衛は所要の旅ごとに足をまげて横浜村を訪れました。そして訪れるごとにいちだんと深く州乾の風光に魅せられていったのです。陸行して湾をめぐり、漁の小舟を浮かべて海上からも探りました。湾は奥に入るほど浅くなっていました。汀の一部は泥嚀と化し葦が群生して舟行を妨げました。度重なる検討のすえ、勘兵衛はここに新田を開くことを決心したのです。汀から漸次沖に向かって埋立てていけばかならず千石の悲願は達せられるにちがいないと直感したのです。横浜村は、小さいながらも砂利のうえに先祖伝来の田畑を耕している。海の幸も少なくない。村民は富んではいないが、貧窮の姿には見えない。陸田が主体なのは、水利に恵まれていないからだが大岡川の水を引けば、水田耕作も不可能ではない、と判断したのです。
浅い海が沖に遠く続いている、無限の可能性が秘められている。
勘兵衛の夢は大きく膨らみました。彼は意を決し、埋立て開墾を幕府に請願したのです。当時の老中、酒井雅楽守忠清)、老中、松平伊豆守信綱の聴許を得て1656(明暦二)年七月、ついに干拓工事に着手したのです。この時、勘兵衛四十六歳でした。埋立ては黒田助兵衛が請負い、苦心惨膽之を続行しましたが翌年五月十八日より十三日間降り続いた大雨のため、折角築いた潮除提は残らず流出崩壊しました。洪水により干拓工事は頻挫するのですが、この年1657(明暦三)年正月十八日に起った振袖火事と呼ばれる本郷丸山の日蓮宗本妙寺から出火した火は翌日も燃えつづけ、江戸の町の大半及び江戸城本丸、二の丸、天守閣も灰燼と帰したため本材の価格が高騰し、勘兵衛はまたまた巨利を得、万治二年(一六五九)二月十一日再度の埋立てを決行したのです。この年、幼い頃から仏心に厚く深く日蓮宗に帰依していた勘兵衛は身延山登り大願成就を祈念しました。そのおり、久遠寺二十九世日莚上人にかつて干拓した千住中村の地に一宇を創建して寄進する旨を申し出て快諾を得、下山するや直ちに諸堂宇を建立しました。日莚上人は自性院日身上人を送って開山とし、運千山自性寺と号しました。自性寺は1688(元禄元)年下谷真養寺を本山の名によって自性寺に移して合寺し運千山真養寺と号しました。この寺は勘兵衛が本堂、鬼子母神堂、書院などを譜代旗本山本正吉(四〇〇石)が稲荷堂と門を建立寄進、安藤重元を勘請開基としています。自性寺は勘兵衛が新たに企画せる新田埋立開墾の成就、五穀豊饒の祈願、諸霊供養のため、寺地二千二百四〇坪を寄付して建立したものでした。新田開発の追願が叶った万治二年、企画請負は三浦郡砂村内川新田を開墾した、摂津大阪上福島の人、砂村左衛門入道真悦が主となり、他に、坂本養庵、友野与右衛門らの協力を得、資金は主として勘兵衛が提供し、同年二月十一日鍬入れをしたのです。
十七世紀初頭(慶長年間)
全国総石高 一八〇〇万石
耕作面積 一五〇万町歩
これに対し
十七世紀終期(享保年間)
全国総石高 二六〇〇万石
耕作面積 三〇〇万町歩
勘兵衛はその功により1669(寛文九)年四代将軍家綱より激賞され、苗字帯刀を許され己が苗字吉田といえるをもって、吉田新田と名乗ることとなったのです。その後1674(延宝二)年八木仁兵衛の検地によれば、石高一〇三八石で勘兵衛及び長子吉太郎良春、次子長吉郎常政の三名の所有となりました。
ここにおいて勘兵衛は幾たびかの災難を免れた感謝の念や、難に殉じた人々に対する供養の心も加わって身延山久遠寺に詣でて道標石を寄進したり社寺建設の志を起したのであった。また吉田新田の埋立開墾を決行するに当っても、その成就を祈願するために身延山に、七年の年詣でを続けたことなど、何れも信仰心に燃えていたことを物語るものである。
その建立する神社、佛寺を挙げれば運千山自性寺(運千山真養寺)、山王大権現(日枝神社)、稲荷大明神(稲荷神社)、栄玉山常清寺の二社、二寺である。
明暦三年(一六五七)五月、洪水により干拓工事が頓挫したが、その年一月の江戸大火(振袖火事)で木材販売で巨利を得た勘兵衛は、万治二年(一六五九)干拓事業を再開した。
このとき勘兵衛は四十九歳であった。
この大火後の万治元年(一六五八)江戸城本丸殿舎の工事に参画した相馬藩六万石の藩主で名君の誉れ高き、相馬長門守忠胤家に残る記録によれば、勘兵衛が江戸城修理の材木の御用達に貢献していたことがうかがえる。
ここにその記録抜粋を挙げる。
御本丸
内 追 手
二之御丸
塩 見 坂 御門御作業入用帳
相馬長門守
万治元年戌年江戸御門御手傅金千八百弐両
桁行 六間半
梁間 五間半 内御手御門の倏
一銀百九貫弐百三十目一厘
買材木之代
鎌倉屋大助、吉田勘兵衛 ほか十九名
桁行 十三間半
梁間 二間半 二之御丸御番所屋根土瓦葺の候
一銀六十一貫四百九十七匁弐分一厘
買材木之代
鎌倉屋大助、吉田勘兵衛 ほか十二名
桁行 三間
梁間 三間五寸 塩見板御門
桁行 二間
梁間 一間半 同所帳番所屋根土瓦葺の候
一銀十六貫三百八十一匁八分五厘
買材木之代
鎌倉屋大助、吉田勘兵衛 ほか十六名
桁行 三間
梁間 八尺七寸 蓮池喰違御門木地屋土瓦葺
桁行 二間一尺七寸
袖之間壱丈 富士見下冠木御門屋根土瓦葺
桁行 二十四間 横家共二中御門北御多門
梁間 三間 屋根土瓦葺
桁行 二十六間 中御門、南天御多門
梁間 三間 屋根土瓦葺の候
一銀四十貫三百四十八匁六分
買材木之代
小島徳兵衛、吉田勘兵衛 ほか八名
右寄之候
一銀二百三十七貫四百五十七匁六分七厘
鎌倉屋大助、吉田勘兵衛 ほか十九名
寛文七年(一六六七)九年の歳月を費やして埋立ての難工事が完成し、大新田が竣成した後もなお勘兵衛は江戸と往来して石・材木商を営んでいた。
自らの最初の活動の地であり、親戚、知己も多く、創立した寺院真養寺や墓地もあり、江戸との関係は切れなかったのである。
勘兵衛は新田の作徳が増殖するに及んで、江戸の店を南吉田家や支配人に譲り横浜に移住した。
住居は天神山裾で入海中最も地盤の固い北三ツ目八丁縄手通り、大岡川の土橋(現在の長者町)南詰に三〇〇〇坪の敷地に建立した。
この地は埋立が鐘形湾中北岸及び南岸から始められたが稍浅く、水底が台地の裾を引いた岩盤をなしていた天神山裾の北岸の地であった。まずこの地点を埋立て此処に邸を構えて工事場の本拠とした。そして必須の飲料用水を得るために井戸を掘削したところ、岩盤から湧き出した水は清冽で、埋立に従事する人々はもちろん新田内に住む者に永く飲料に供され多くの恩恵を与えていた。
吉田新田の地割りについては、中央の中川を境に南北二つに分けられ、これをまた東から七つに区分け、中村川側を南一ツ目から七ツ目、大岡川側を北一ツ目から七ツ目と呼んだ。八丁縄手通り(長者町通り)はかつての吉田新田の大堰提のあとで実際の堰提は大岡川の長者橋から中村川の車橋までで約一三〇〇メートルであった。
北二ツ目に勘兵衛の建立した栄玉山常清寺があった。
新田は初代勘兵衛の遺言により北地区は嫡子が相続し、南地区は二男、三男の分家の吉田南家が誕生し、現在の末吉町一丁目あたりに南家があった。
江戸本材木町四丁目で幕府御用の石材・木材商の店を支配人の吉田屋喜兵衛に譲り、南吉田家が横浜に移ったのは勘兵衛没後、二十五年を経た正徳元年(一七一一)のことで、世は六代将軍家宣の時代であった。独立の新村として出発した吉田新田は延宝二年(一六七四)石高、一〇三八石は勘兵衛一人の所有するところで次子長吉郎(二代目勘兵衛)及び支配人を置いて管理させていたものである。
ちなみに万治二年(一六五九)干拓事業を再開したとき
勘兵衛良信 四十九歳
長子 吉太郎良春 七歳
次子 長吉郎常政は翌年の出生である。
石高一〇三八石は勘兵衛の二子に頒ちられたが、この時吉太郎二十二歳、長吉郎十五歳であった。長子吉太郎は江戸に残って石・材木商を継承していたが延宝三年六月十七日、病のため逝去した。
承応元年(一六五二)生まれと推定されるから二十三歳の若さで父よりも十一年も早い死であった。
法名 秋性院良意日覚
真養寺及び常清寺の両寺に埋葬されている。
往昔、魚蝦の棲みたる海湾の入海は一転して瑞々しい田圃となり、田圃から市街、或いは寄州から塩田、塩田から市街と変化した横浜は、安政以来止むことなき人工が加えられて、今や世界屈指の貿易港であり大都市へと発展した。また吉田新田を二分する初代勘兵衛家を継承する北元締が中川(現在市営地下鉄線)の北側、若死した長子吉太郎家を継承した方が南元締で中川の南を所有し南家と称した。然しながら明治の始め南家は吉田常次郎の代に新田内南一ツ目、沼六万坪の埋立、中村川の浚渫、根岸堀割の開削、滝頭波止場の築設に努め公共の為には大なる利益を遺したが、吉田家にては大なる損失を蒙り南吉田家は遂にこの事業に殉ずるに至ったのである。
このように開拓史に偉大な足跡を遺した初代勘兵衛は貞亨三年 (一六八六)七月二十六日、病のため北元締の自宅に於いて七十六歳をもって没した。新田埋立完成後、十九年の歳月が経っていた。
辞世の歌は
妙なるや法の蓮の華の香を
しばしとどめて浮世経にけり
この歌にも法蓮華経という法句が詠み込んであり、勘兵衛の宗教心がいかに深かったかということが窺うことを得るのである。
法名は運千院常清日凉居士
今その偉業を讃仰する人々の参詣を得て大発展を遂げた横浜の地を眺めつつ久保山の地に静かに眠っている。
大正十三年春、東宮殿下ご成婚のご慶典を挙げさるに際し、その年の二月十一日を以って従五位を贈られ地下の枯骨の上に至大の栄誉が輝くに至った。
吉田家の家系に就いては初代勘兵衛良信の父母及び祖父母に関する記載が殆ど現存しない。
しかも父、春清院栄玉日昌(寛永四年二月朔日没)母、春意院妙成日就(寛永二十一年二月二十九日没)に関しては没年日と法名のほか俗名をも知ることができない。
また祖父母に関しては、東京南千住の真養寺法塔の右側に、慈父法春、慈母妙恵と刻してあり、これが良信の祖父母の法名であろうと思われるが、その地には知るべき資料はない。
久保山の吉田家墓地にも祖父母、父母の法名の碑はあるが、没年月日等の記載はない。
従って勘兵衛は慶長十六年(一六一一)生まれであるから故郷の能勢にて十六、七歳の時に父を亡くし、その後二十四歳のときに江戸に出、木材・石材の商業を営み、その業大いに発展して豪商となり、その富をもって吉田新田の大埋立開墾を成就し初期の目的の千石余りの収穫を達成し貞亨三年(一六八六)七月二十六日七十六歳をもって没したのである。
二代勘兵衛(長吉郎 享保八年十月七日没、行年六十四)、三代勘兵衛(萬吉郎 延亨三年四月二十八日没、行年六十一)、四代勘兵衛(喜平二 延亨元年五月没、行年二十六)、五代勘兵衛(喜八郎 文化二年六月二十一日没、行年八十五)、六代勘兵衛(郡二郎 文政二年十月十四日没、行年五十九)と代々世襲してきたが、二代及び五代在世の時は、初代勘兵衛の吉田新田埋立の伝統的な考えと横浜移住後も江戸は初代の最初の活動の地であり親戚知己もおり、また真養寺の如き寺や墓地もあり江戸との関係は切れなかったのである。
享保、元文、寛保、延亨の三十年間及び、その後も時の八代将軍吉宗は治水墾田に心を傾け盛んに川普請を行い灌漑を便にし、米穀の収穫を多くすることに努めた。
この時代三代及び五代勘兵衛は葛飾郡猿ケ又の水利、土木事業の大工事を請負い、同地方の開発には大きな功績を挙げたが、この工事は事意の如くならず、祖先以来折角築き上げてきた財産にかなりの痛手を蒙り経済上には大打撃を受けた。吉田家では数多かった珍
宝もそのときに喪われたと語り継がれている。
そしてこの猿ケ又の工事なるものについては、関東大震災後の現在、同家の文書記録が焼失して探ぬべき資料は全くない。
六代勘兵衛及び七代勘兵衛(元二郎 弘化四年八月五日没、行年四十四)が猿ケ又工事等の後を受けて家産を整理快復せしめた。
とくに七代勘兵衛は十四歳のとき父を失ったが、生来貸殖の道に長け父租の遺業を整理し散在する財を集め子孫をして安寧ならしめ吉田家中興の租と称えられている。
八代勘兵衛(小市郎 明治四十二年一月二十六日没、行年八十六)並びに九代勘兵衛(良二郎 明治四十四年六月三日没、行年六十三)は、南家の吉田常次郎(明治十一年七月十五日没、行年三十五)らは、明治三年(一八七〇)四月神奈川県知事井関盛良の「吉田新田南一ツ目沼地埋立てとそれと同時に行われる根岸堀割開削及び中村川堀拡げ浚渫工事を望む者には許可する」という触書に接し大いに驚き、南一ツ目は沼地であるが祖先伝来の地であり付近一帯の土地所有権を持っていたのでこれを躊躇し長引かせて、この事業を他人に奪われては子孫たるものの忍び難いところから八代勘兵衛は意を決して願書を提出して許可を得、同年十一月から十八ヶ月間の目標で工事は開始された。
しかし開削、埋立て、諸付帯工事の難しさに加えて住民の移転等、次々と予期しない幾多の諸問題が発生し、計画期日を遙かに越えて明治七年まで大巾に延びてしまった。
如何に困難な事業であったかが窺い知ることができる。
工事は先ず掘割川の開削、そこで出土する土を採ることと舟便の為の堀割川の整備から始められ、中村川を経た土は石川町の対岸から陸揚げが行われたが次々に難問題が行く手を阻んだ。
それは八ヶ谷(山谷)を切り開き、堀之内村、根岸村、滝頭村の三ヶ村の田畑に新しい川を掘割すること、その他農家の取払い、土手の築工、土留のための石垣、板柵、架橋の工事等で日数を費やし総工事費の一割も出費してしまった。
今日のように機械力でなくすべて人海作戦にのみ頼るしかない時代に、一説によると万という人間が稼動したため人件費に多くの出費がかさんだためである。
明治七年に至り全工事を完了したが足掛け三年延びたことになる。
沼地埋立て完成後の総坪数は六万二七〇九坪、町数は三十一ヶ町が誕生した。
このように堀割川は沼地を埋立てるため、土地を開削することによって出来たものでそれが本牧、根岸をすっぽり包むように根岸湾に通じさせ、その先に防波堤を建設し横浜港と根岸湾を結ぶ唯一の水運路として一石二鳥の効果を得た。
然しながらこの事業は極めて難工事の上、長期にわたったため資金に窮し外国商社から多額の借財をなしため、その返済に苦慮し、南家(吉田常次郎)は連帯責務のため悉く祖先からの産を失う悲境に沈んでしまった。
十代勘兵衛(銀次郎良循 昭和十七年二月二十五日没、行年七十一)は先祖の恩に報いる志厚く、明治四十四年五月身延山久遠寺に参詣の折、奥の院思親閣の参道に初代が建立の道標を発見し、大正二年三月之を山内大乗坊境内に移建し、もとの地に新道標を建て、由来を記して祖先の志を受け継いだ。
大乗坊に移された道標石には次の文字があった。
南無妙法蓮華経運千院常清日凉
施主江戸住吉田勘兵衛良信
また京浜急行日ノ出町駅裏手の石段のある坂道の中途に「天神阪碑」が建っている。
碑には万治二年初代勘兵衛が幕府に吉田新田の埋立てを再請して許可を得、天神山及び石川中村の大丸山等を切り崩し、その土砂をもって新田を埋立てた土採場の跡である旨と、これに伴って通行の用に供していた無名の坂道に十代勘兵衛が「天神阪」と命名し由来を記した碑を昭和九年九月二十五日建立したものである。
梅林をもって世に知られた磯子の杉田に中山法華経寺の末で日蓮宗の牛頭山妙法寺がある。梅林は妙法寺境内を中心とし往年、英照皇太后、照憲皇太后の台覧や、天下の俳人また観賞の詩歌をほしいままにしたが、今は境内に僅かに残る名木のみにして梅林は影をひそめた。
妙法寺は文和元年(一三五二)の創立で第九世日除の代に旧来の堂宇を廃し、本堂を再建したが、当時天井板並びに大黒柱は初代勘兵衛の寄進にかかるものとの文献がある。
さらに明和元年十二月二十六日(一七六四)第二十六世、日将の代、本堂が焼失し第二十七世、日享の代に再建された現在の本堂の天井板並びに大黒柱もまた勘兵衛の寄付といわれている。(五代勘兵衛の頃かも)吉田家の末が現在胸を張って勘兵衛の治績を語れるのは、土に根着いていたものの強さを物語っている。
勘兵衛は大富豪となったが、さらに新田開発事業にも手を延ばすといった歴史がある。
その経営はきわめて多角的であると同時にいつでも商売を切り換える柔軟さがあった。
材木一筋の江戸成金とは大きな違いがあった。御用請負の商人ははじめ権力を利用しようと接近し、そして事実一時は大儲けするがそのうち逆に権力に利用され、骨の髄まで絞り取られて没落の憂き目を見ることがおおかった。
封建権力に一定の距離をおき、家業第一とする立場こそ政権の交代や幕府崩壊の荒波をのり越え豪商としての生命を持続し得る商人道であった。
有為転変の世にとくに金の力の儚さが痛感される。
勘兵衛の土に着いたものは強く新田は近代の繁華街に変って立派に生きているし日枝神社も稲荷神社も健在、常清寺は久保山に移ったが、代々の勘兵衛は安らかに眠っている。
初代勘兵衛の七月二十六日の命日には、子孫縁者が相寄ってかかすことなく施餓鬼供養がおこなわれている。
敬神、崇仏の念の厚い人ならば、勘兵衛の敬虔な信心心を説くであろう。
彼は、この入り海に注ぐ大岡川から流出する土砂が、河口に積もって埋立てしやすいことに注目しました。新田開発を計画して競争し、着順に神社に参詣するというこの祭礼は永禄年間(1558−70)に、すでに行われていたといいます。
生麦村神明社の「蛇も蚊も祭」は6月6日に行われます。葦で長さ27m、胴の直径45cmほどの大蛇をつくり、若者がささげもって「蛇も蚊も出たり、日よりの雨け」と掛け声をかけ、各家庭を回って蛇の頭を軒の中に突き入れ、やがて豊作を祈願して田の中であばれ回る。祭りが終わると、子供たちがこの蛇を鶴見川の川下に流し、この日から漁師の子供も海にはいることが許された。
多くの協力者1656(明暦2)年幕府の許可を受け、7月17日から工事を開始しました。工事は順調に進んだが、翌年5月に13日間降り続いた雨で増水し、潮除堤が残らずくずれて1年間の苦労は水のあわとなりました。再び計画を綿密に立て直し、再許を得て1659(万治2)年工事は始められた。このときには、すでに新田開発に経験をもつ砂村新左衛門・友野与右衛門らが技術面で、また資金面にも、幕府との折衝にもそれぞれ多くの協力者がありました。
大岡川を河口から3分し、堀之内村・中村沿いには中村川、太田村・戸部村沿いには大岡川、中央には中川を設けて用水としました。海寄りには潮除の石堤約1.5kmを築き、その石材は安房と伊豆から運びました。埋立ての土砂は中村・太田村・横浜村洲千島の3か所から採りました。こうして1667(寛文7)年、8年の歳月と8,038両余の工費とをもって完成し、野毛新田と名づけました。
さらにこの協力者として、農民の働きも忘れてはなりません。完成する5、6年前から、彼らはこの新田に移り住み、収穫は少なかったが、土地の補修に努力しながら耕作に取り組んでいきました。彼らがどこから移り住んだか、果たして定着したものか不明ではあるが、吉田家に現存する小作証文を見ると、多数の農民が集まってこの開発に協力していたことがわかります。
新生の村
この新田は潮除堤の内側を1つ目とよび、中央の中川によって戸部村よりを北1つ目、石川中村側を南1つ目といい、7つ目までに分割されていました。南1つ目(万代町から吉浜町)は葦のはえた沼地で、田から排出された水をため、海へ流す役割を果たしていた。勘兵衛は北2つ目(長者町9丁目)に自分の家を建て、彼の子孫は代々勘兵衛の名を受けついで、11代までここに住みました。1669(寛文9)年4月、4代将軍家綱によって、この野毛新田は吉田新田と命名され、吉田氏は苗字帯刀を許されました。また新田の発展を願って1673(寛文13)年、南7つ目(南区山王町)に山王権現を祀った。これは太田道港が江戸の守護神として祀った日枝神社の神霊を迎えたもので、現在、日枝神社・お三の宮といわれる。1674(延宝2)年にこの新田は検地を受け、水田94町余、畑22町余、屋敷地2町余、石高1,038石とされ、1つの村として公式に出発した。この新田村は現在の吉田橋から伊勢佐木町を中心にして、南は中川村、北は大岡川、西は南吉田町に至る間である。