その他の新田
横浜新田
開発形式の変わったものとしては横浜新田がある。すでに完成した吉田新田の東、洲千島の西側はなお入り海であり、この入り海埋立ての計画は早くからあったが、水害を恐れる周辺の村の反対から着工できないでいた。寛政の改革が始まったころ、横浜村の人たちが協力してこの入り海の南の一角(山下町付近)の埋立てを開始し、文化年間(1804−18)横浜新田として完成した。これは他の新田のように商人や豪農の投資によるものではなく、村民協力による村請新田であった。今まで雨水にたよる陸田が多かった横浜村で、水田耕作ができるようになり、この新田から155石の生産をあげた。
太田屋新田
横浜新田の北西部はそれから50年後の嘉永年間(1848−54)に、三河国(愛知県)出身の商人太田屋により600両の費用で埋め立てられた。入植農民5戸、下田ばかりで、その80%は潮流の干満する沼地であり、農民たちはうなぎを採ったり、塩を焼いたりして生計を立てていた。これが太田屋新田で、現在の横浜公園から太田町を経て、大岡川に至る地である。横浜開港後は横浜新田とともに市街地として発展した。
このような相つぐ新田開発によって、横浜村の洲千島はその姿を消し、象牙形の白浜は陸続きとなった。
小高新田
耕地の少ない惟子川上流の村々では、伝馬を勤める馬の飼料や、肥料としての堆肥に必要なまぐさ場以外は原野が多かったので、これを開墾して畑作新田をつくっていった。