(4)六浦湊
鎌倉の外港
鎌倉に幕府が開かれたことによって、隣接する六浦の地も鎌倉の影響下に入ることになりました。直接外洋に画する鎌倉は、船をとめる設備に乏しく、増大する都市住民の消費をまかなうだけの物資の輸送にも支障を来すようになりました。また関東一円から物資を輸送するときに鎌倉に通じるための、東京湾側の港湾施設建設が必要となりました。六浦荘は入海があり港湾に適した地形でした。『廻国雑記』によれば源頼朝は鎌倉の湊として「金沢(六浦)」「榎戸(横須賀市浦郷)」「浦河(横須賀市浦賀)」の三つを開いたとあります。鎌倉にもっとも近い湊、海流、海風、船の係留条件の良さ、物資・人の集散性などのいろいろな条件が揃っていた「金沢(六浦)」が発展したと考えられます。
六浦湊は中国との貿易窓口のひとつでもありました。貿易船は唐船と呼ばれ、六浦湊からは金銀や刀などが輸出され、中国からは多量の宋銭、仏典や書物、武士などに好まれた陶磁器が輸入されました。六浦津と呼ばれた六浦湊の位置については、建設当時は朝比奈峠から直進して六浦の入海に当たる上行寺、旅芸人の集まる場所としての瀬戸明神(神社)あたりが六浦津の中心でした。室町時代に入りますと、六浦湊の中心地が瀬ケ崎に移っています。六浦と瀬ケ崎の間には、唐の船が三般着いたという伝説から、「三艘」という地名が残っています。
瀬戸橋の建設
瀬戸橋は中世では珍しい海上架橋として、難工事の末に一三〇五〜七(義元三〜徳治2)年の間に完成しました。金沢北条氏が本拠地とした称名寺付近は、六浦荘の中でも辺境に位置し、交通の便の良いところではありませんでした。鎌倉からは、白山道を経由して釜利谷方面から山道をたどりますか、上行寺・瀬戸明神の前から渡し船によって対岸の洲崎を通るかの方法しかありませんでした。六浦荘の中心部から瀬戸の海峡を橋で結ぶことにより、称名寺への参道として利用することができ、また六浦の延長として市街地現在の瀬戸橋(平成十四年)が形成され、都市機能を拡張することができたのでした。
内海交通と六浦湊
六浦湊は海外貿易の拠点としてばかりではなく、東国の一大消費地として発展した鎌倉を支える重要な湊として機能しました。鎌倉時代の末には、房総や伊豆方面などから、年貢や物資を輸送する船が多く入港し、これらの物資は六浦道を通って鎌倉に運ばれました。六浦湊には物資の管理や輸送に当たった「間」が営まれ、鎌倉に通じる大道には関所が設置され、関銭の徴収が行われました。室町時代になりますと、六浦湊のほかに品川と六浦の中間に位置する神奈川湊が文献に現れて、品川湊・神奈川湊・六浦湊が東京湾内の物資の流通に大きな役割を果たしました。