宿場
宿場の仕事
宿場は街道交通の基点である。伝馬の制度によって宿場には一定の人馬を用意しておき、公用旅行者、荷物運送の利用に応ぜられるようにしておかねばならなかった。さらに江戸・大阪間の継飛脚の仕事があり、そのために5人の人足を常に用意していた。このような任務のため問屋・年寄などの宿役人がおかれた。
問屋役は問屋場で行われる伝馬・飛脚の上り下りのひきつぎ、配置など、問屋場の仕事いっさいをきりもりする役である。1601(慶長6)年の伝馬制度で東海道では馬36匹を常備することになったが、参勤交代の実施など街道の利用が多くなり、必要馬数の増加とともに常備数も増してゆき、1640(寛永17)年に100匹と定められた。これより前に、人足役として人足100人も常備することになった。これら人馬は、御伝馬朱印の押された朱印状をもつ公用旅行者には無償で、幕府機関の発行する証文をもつ旅行者には公定のだ賃で用立てたが、公定賃銭は当時の相場の半額程度であった。なお余裕があれば一般旅行者も利用でき、これは相場の貸金であるので、宿場ではむしろこの方を喜んだ。大名や公用役人の通行が1日に何組もかさなると、これをあやまりなく処理することは非常にむずかしかった。
本陣は大名宿ともいい、公卿・大名・幕府役人たちが宿泊する旅館で、本陣の収入は祝儀にたよるだけで、構えが大きいだけに、はたで見るより経営は苦しかった。
神奈川宿
神奈川宿は神奈川町と青木町とで宿場をつくり、全戸数1,300戸で全国的に見ても大きく、その45%が転入者の地借、店借で、旅人相手の商売をしてかなりにぎわっていた。また海上交通の要港でもあり、さらに相模中部や八王子との物資の流通、販売の中心地で、南関東一帯の経済交通の要地としての地位を占めていた。
保土ヶ谷宿
保土ヶ谷・神戸の両町に、少し離れた惟子・岩間の両村が街道筋に移転し、この4か町村が1つになって保土ヶ谷宿をつくり、相模・武蔵境の境木から芝生村境の追分までの街道に沿う5.1kmの細長い町となった。しかし宿場として町並みをつくっているのは、その中央の2.1kmの間で、この両入口に見附があり、江戸方見附、上方見附と呼ばれた。大名宿泊所の立て札が建てられるのも、宿役人が送り迎えするのも、大名行列が整えられるのもこの見附からである。
この中央部に宿役人・旅館・伝馬役がその居を構え、その外側に歩行役・小役と続き、つぎに地借・店借が住んでいた。享保年間(1716−36)の戸数は362戸で、そのうち伝馬役163戸、歩行役57戸、小役37戸、地借・店借90戸となっている。伝馬役163戸で伝馬100匹、歩行役・小役合せて94戸で人足100人を負担した。地借・店借の90戸は全戸数の25%に当り、生活しやすいところから農村より転入して来たものが多く、旅行者の荷物を運んで貨かせぎしたり、茶屋を開いて酒や食べものを売っていた。本陣は苅部活兵衛が命じられ、江戸時代を通じてこの役を世襲し、なお問屋・名主役も兼ねて、苗字帯刀を許されていた。
保土ヶ谷戸塚間
元和2年 32文
寛永20年 49
万治2年 71
元禄3年 80
正徳元年 108
寛政10年 125
天保10年 160
木馬48貫・駄賃の変遷
木馬(ほんま)とは荷物を運ぶ馬、40月は150kg。
5貫の荷物を運ぶ人足賃は本馬の半額であった。
旅籠数 は た ご 商人 職人
(上) (中)(下)
元禄8年 軒 37 5 7 14 24 18 36 人 人
寛政9年 文化3年 文政7年 天保年間 嘉永3年 63 56 52 67 55 61 104 15 29 49
保土ヶ谷宿の旅籠数と商人・職人数との変遷
「お江戸日本橋七ツ立ち」とうたわれるが、7ツとは午前4時ごろ、朝早く旅だって夜は早く宿にはいるのが旅の心得であった。日本橋から32kmで保土ヶ谷宿にさしかかる。旅の第1日目で疲れも早めに感じ、急ぐ旅でなければ保土ヶ谷宿泊となる。旅籠屋は宿場の特徴の一つで、1695(元禄8)年から1797(寛政9)年の100年間に、その数は37軒から63軒と倍近くになっている。年代を追って正確にその数を知ることはできないが、1806(文化3)年56軒、1824(文政7)年52軒の外に茶屋33戸があり、天保年間(1830−44)には67軒、うち上級7軒、中級24軒、下級36軒で、元禄年間(1688−1704)に比べて大変な発展ぶりである。
商人・職人も寛政年間に比べて、1850(嘉永3)年にはその数も著しく増加し、彼らは農業をやめ、商人は宿場稼業だけに従い、職人も今までの大工・木びき・かじ・桶職・紺屋のほかに、抽しぼり・綿打ちなど近隣農村の工芸作物の加工業者が生まれ、宿場としてだけでなく地域産業経済の中心地となっていった。江戸末期の1864(元治元)年の「保土ヶ谷宿町並絵図」によると、屋号に永田屋・星川屋などがある。永田村や星川村の出身者であると思われる。屋号だけではその職業もわからないが、津の国屋・紀伊国屋は関西出身者の旗寵と思われる。なべ屋・かま屋が多いがこれはなべかま鉄物商で、糀屋は平沼新田を埋め立てた九兵衛の店である。すしや・そばやなどがあるのもおもしろい。家に畳がまったくない家75戸(25%)、10畳以下92戸、10畳から30畳まで97戸、30畳以上40戸(13%)となっており、農村に比べて著しく都市らしい姿を示している。
戸塚宿
保土ヶ谷宿を出ると権太坂で、境木まで坂道が続く。戸塚を過ぎるとまた上り坂になり、これより山道の難所が約3kmも続く。ここを旅するのは容易なことでなく、保土ヶ谷宿の人足・伝馬もこの難所を越えて藤沢宿まで行くのは大変なので、その中間地点に戸塚・吉田・矢部の3か町を合わせて戸塚宿ができた。
宿場の上方見附は今も戸塚町6丁目にあり、切り石を積んだ囲みの中の桧の緑が、当時の姿をしのばせている。本陣は沢辺と内田との2軒あり、沢辺本陣は建坪271坪と戸塚宿のなかでも最大規模を誇っていた。鎌倉屋をはじめとする脇本陣が3軒、旅龍屋は75軒と保土ヶ谷宿より多かった。これは戸塚宿泊まりの旅行者が多かったことを示すもので、江戸にも、小田原にも40km前後、ちょうど一日行程のところに位置を占めていたからである。『東海道中膝栗毛』の弥次郎兵衛・喜多八が泊まったのはこの戸塚宿の旅寵屋である。