教育と信仰

 寺子屋
  庶民教育の唯一の機関として、寺子屋がありました。八代将軍吉宗が教育に力を尽くしてから盛んになりましたが、横浜市域内にまで普及したのは江戸後期になってからです。生麦村(鶴見区)では関口藤助(梧桐庵)・東園が父子二代にわたって塾を開き、帷子町(保土ヶ谷区)で内野竹庵が手習い師匠として、多いときには二百人近い子供を集め、保土ヶ谷宿では清墨庵が「米屋の先生」とよばれて近郷にその名を知られました。生麦村の名主関口東園は四十三歳で寺子屋師匠となり、文化・文政・天保と三十数年もの間、教育に力を尽くし、この長い間の指導の結晶として、教科書『孝行萌草』を八十歳の時に出版しました。「人間は万物の霊長ですから、孝行を第一にしなくてはならない」と説いたものです。もっとも、この教科書は子供に読ませるものではなく、寺子屋師匠の指導のための本でした。
 寺子屋に入学することを初登山・寺入りといい、2月初午を吉日としましたが、近代学校のように入学期が定められていたわけではなく、2月末日、六月六日、五節句などが選ばれました。初登山の日には仲間いりといって、同門の先輩に赤飯・餅菓子・筆・半紙などを贈ってあいさつしました。就学年齢も一足してはおらず、保土ヶ谷宿では七、八歳、生麦村では九、十歳でした。授業料は節句銭といい、納入方法もそれぞれ違っていましたが、保土ヶ谷宿や生麦村では年間三百文ないし五百文程度でした。

 庚申講
  現在横浜市域内の街角に庚申塔を数多く見ることができ、今もその信仰が残っています。庚申(かのえさる)の日は六十日ごとに巡ってきますが、年に六回この催しを行いました。この夜は庚申の神を祭り、飲食を共にし、にぎやかに雑談しながら、家内安全や豊作を願ったのです。また、この日には裁縫もしませんでした。これを庚申得といい、この行事を行う仲間を庚申講といって、集落全体の組織として社会的・娯楽的協同の場とするとともに、頼母子講なども行って互助機関の役割も果たしました。
 庚申塔には文字をきざんだものもありますが、帝釈天の使者青面金剛が庚申であるとして、上から日・月・青面金剛・邪鬼・三猿・鶏をきざむものもあり、また、このうち、日・月・鶏を欠くものもあります。青面金剛は腕が六本あり、邪鬼を踏みしめて憤怒の相をしており、三猿とは不見・不言・不問の三匹です。

 祭礼
  神奈川洲崎神社の祭礼は見合祭といって興味深いものです。この神社は頼朝が安房洲崎神社の分霊を迎えて建立したところから、同じ日に両神社の祭礼が行われ、安房に祀られる男神天之太玉命と、神奈川に祀られる女神天之比理登女命との御輿が浜に出て船出祭を行い、海上はるかに見合う祭がなされるのです。
 本牧神社のお馬流しの祭礼は、葦でつくった馬に供物をし、数隻の舟で海上に運び、沖合一kmほどの所で馬を流します。