複雑な支配
天領と旗本領
江戸初期の横浜市域の大半は天領で、この地を支配する地方官として、久良岐郡には間宮氏・八木氏、橘樹・都筑両部には伊奈氏、鎌倉郡には彦坂氏が、それぞれ代官に任命されました。旗本領としては小知行のものばかりで、その旗本も給地に屋敷を建て、在地支配しながら所領と江戸を往復していました。
その後、功労のあった旗本に市城内の天領をさいて与えられ、その数もしだいに増加していきました。三代将軍家光の正保年間(一六四四−四八)には、その旗本も百八十二人となり、都筑郡の大半と、鎌倉郡の北半分は旗本領となりました。都筑郡では、天領と旗本領とが入りまじり、一村を数人の領主が分割支配するところもありました。このころには、江戸の建設も一段落し、幕府の政策もあって、旗本は江戸に住むようになり、給地はその任命した名主に管理させて、年貢米などを受けとっていました。五代将軍綱吉の元禄年間(一六八八−一七〇四)になりますと、橘樹郡も北部が旗本領となり、久良岐郡では米倉氏が金沢(六浦)藩主となってその南部を領し、鎌倉郡では戸塚宿周辺の村々を除いて大部分が、旗本領などとなっていきました。
大名領
米倉氏は清和源氏義光の子孫と称せられ、甲斐八代郷米倉に住むようになって米倉の姓を名のりました。その子孫は武田氏に仕え、重継は信玄の家臣として戦功を重ねましたが、武田氏が滅んでから、その子息継は家康に従いました。忠継より4代目の昌努は綱吉の御側役となり、一六九六(元禄九)年金沢に一万石の地を拝領して横浜市域に在住した唯一の大名となり、金沢に陣屋を構えました。昌努の孫昌照には子供がなく、綱吉の側用人(大老格)として権勢をふるった柳沢吉保の六男忠仰を、養子として迎えています。小大名ながら幕府から厚い待遇を受けていたと考えられます。一八六八(明治元)年三月、官軍東征の際、藩主米倉昌言は横浜取締役を命じられました。
東海道宿場はすべて天領で、一村一人の代官支配、それに続く近傍村落に天領が集中しています。これはその村々が公用人馬役を勤めたからです。鶴見川地域の平坦地村落では、天領4か村、旗本領十三か村、残りの九か村は天領と旗本領とが入りくんでいます。したがって代官支配所は十三か所ですが、旗本支配所にいたっては六十九か所で、この地帯の二十六か村を代官・旗本八十一人で支配していることになります。一村平均三.一五人の支配者がいるのです。鶴見川上流の谷田村落・橘樹郡の谷田村落がこれに次いで支配者数が多いです。帷子川上流の谷田村落の一つである二俣川村では、村高八三七石ですのに、一人の代官と5人の旗本とが村を六つに分けて支配していました。一村内に天領や数人の旗本の所領があり、代官も旗本もそれぞれ名主・年寄(組頭)・百姓代の村役人を任命し、年貢米の徴収をはじめ、その領内をおさめさせました。これを合わせますと、横浜市域内二〇七か村に三五二人の名主がおり、平均しますと、一人の名主の管理する戸数は四十五戸、石高は二百三十五石となります。このように、天領と小知行の旗本領とが数多く、互いに入りくんで支配していることが横浜市域支配の特色でした。
なお、横浜市域内の名主の中には、後北条氏の家臣が土着してこの時代に本百姓となり、江戸時代を通じて名主の役職を世襲した者があります。例えば、都筑郡市ヶ尾村の上原氏、寺家村の大曾根氏、川島村の中田氏、橘樹郡生麦村の関口氏、久良岐郡永田村の服部氏、本牧本郷村の橋本氏らです。
検地
封建社会では農業が主要な生産部門であり、領主の財政は主に農民からの年貢によっていましたから、耕地面積・収穫高・耕作者を調査しておくことは、領主にとって大切なことでした。これが検地です。横浜市城内の二百を越える村々の検地は、一斉に行われたわけではなく、村それぞれの事情により随時実施されました。全村の検地帳は残っていませんが、現存するものから、4郡各村の村高を表にすると次の表のとおりとなります。
橘樹郡 久良岐郡 都筑郡 鎌倉郡
100石 以下 4 2 3 5
100−300石 14 19 23 13
300〜500石 8 9 18 13
500−1000石 17 10 4 13
1000石以上 1 0 4 1
石高別村数(正保年間) (横浜市史より)
村高は村の生産高を米に換算したもので、一石は約142.5kgである。村高は四部共に百石から千石の間がほとんどでした。また、その支配が互いに入りくんでいますので、土地改善はなかなか望めませんでした。
江戸との結びつき
江戸湾(東京湾)の専業漁村である神奈川猟師町(神奈川区)・生麦浦(鶴見区)・新宿浦(神奈川区)など御菜人力浦は、江戸城中に魚を献上することが義務付けられていました。神奈川猟師町には、鯛の生箕があって、城中の儀式や祝い事のとき、生のよい鯛を納入しました。神奈川宿には、日本橋問屋の中継商人がいて、各漁村からの集荷を日本橋へ送っていました。江戸の問屋に魚を送るには、陸上を馬で運ぶのが普通でした。生のいい魚を早朝の市場に間に合わせますので、夕方船から揚げた魚を夜通し運びました。
金沢の海岸で作られた塩は、神奈川宿などの塩商の手を経て、船で江戸や行徳(千葉県)に運ばれました。また、浦賀の肥料問屋から送られた干鰯は、神奈川宿や保土ヶ谷宿などを経由して、八王子や厚木にまで出荷されました。さらに、市域の山林で伐採された薪は、宿場に集荷された後、江戸に送られました。
さらに江戸からは、清酒・茶・反物・かんざしなどのぜいたく品が運び込まれ、宿場などで販売されました。