横浜町会所
明治初年の町会所
神奈川県庁の前身が神奈川裁判所である
ことはほかのぺージでも述べていますが、
では市役所の前身はなんでしょうか。政治
制度の上ではっきりと市制がしかれたのは
1889(明治22)年からですが、江戸時代から
明治への移り変わりの中で市役所にあたる
ものを考えると、町会所がこれに近い役割
を果たしているのではないでしょうか。
明治になって、神奈川奉行の仕事は神奈
川府知事がそのまま引継いだといえますが、
その下の町役人は従来のままでした。横浜
町総年寄は、苅部活兵衛、石川徳右衛門、
石井源左衛門の3名でした。町会所は運上
所脇にあり、そこには勘定係、調物係などがおかれ、それぞれ町の行政事務を分担していたのです。1868(明治元)年6月には従来の総年寄や名主の制度を改良し、1名ずつ公選としました。総年寄には苅部活兵衛、名主に小野兵助が選ばれました。さらに8月には、関内の各町を5区に分けて名主をおいています。その年の12月、総年寄は市長、名主は副市長へと名称をかえたのですが、この頃まで横浜の町の政治はほとんど江戸時代と同じで、町や村の自治的なしくみが重んじられていました。しかしこの前後から政府は中央集権を進めるため、全国民の戸籍を作ることを計画しています。横浜にも、その影響は徐々に及び始めます。
画一的な行政
1871(明治4)年5月ころから、県は戸籍調査のため全県を25区に分け、各区に戸長、副戸長をおきました。横浜は1区から5区までで、野毛から戸部・石崎までが第6区に編入されています。この区制は、幕府時代の自治的な町や村を一応無視して、上から画一的に定めようとしていることに特色がありました。1872(明治5)年になると、政府は名主・年寄などの古い町役人の呼び名はすべて廃止して、戸長、副戸長と改称しました。同じ年、町会所にいた町役人も廃止されて、町会所は貿易商などの商人の集会所となりました。1873(明治6)年、県は全県を20区に分け、区内をいくつかの番組に編成しなおしました。区には区会所を作り区長をおきました。横浜は第1区にあたるのですが、もとの横浜はその中でも1番組でした。なお、それぞれの番組には戸長をおきました。
区長、戸長は、はじめは官選でしたが選挙で選ぶようになり、任期は4年でした。それまで村役人が持っていた帳簿や仕事は、番組の戸長に移り、役人を中心とした新しい行政のしくみができあがったのです。1874(明治7)年には区・番組の名称はなくなり、大区・小区となりました。
町会所の建物は1874(明治7)年に完成したもので、時計台といわれて当時横浜最大の西欧風建物でした。しかし1906(明治39)年に焼失し、のちその場所に開港記念会館がたてられました。
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