ガス灯から電灯へ
免許申請の争い
ガス灯が横浜にともされたのは1872(明治5)年9月29日のことで、これが日本における初めてのガス灯点灯でした。現在、本町小学校敷地内のガス会社跡には、明治の文化財としてガス灯が記念に残されています。初めてのガス灯は大江橋より馬車道、本町通りにかけてともされました。
ガス灯の建設については幕末にアメリカから免許の要求が出されています。1870(明治3)年にはドイツ人やイギリス人が、県にくわしい計画を出して免許の申請をしてきました。ガス灯はこの60年も前にイギリスで実用化されており、諸外国にとっては
有利な事業でした。
この時期、ドイツ系のシュルツ・ライス商会が、
ガス灯建設にことのほか熱心で、居留地内のガ
ス管敷設を望んでいました。日本のガス灯建設の
代表者としては高島嘉右衛門が挙げられます。
彼は、ドイツ商社に免許が与えられそうな状況を
みて神奈川県知事を説得し、「かれらに免許を与
えることは日本の利益にはならない」と主張しまし
た。政府は高島らの日本側に免許を与えたかった
のですが、ドイツ側も強く望んでいたので取扱いに
苦慮しました。そこで、横浜居留地内のガス灯建設
の免許の交付について知事が各国領事と会議を
行った結果、
居留地外国人に日独両会社のどちらかに
申し込ませ、応募の多い方に免許を与える
ことにしました。新聞に布告を出して申し込ませた結果、日本側の勝利に終わりました。
高島のガス事業
高島は上海からフランス人技師プレグランを招いて計画をねりました。伊勢山の下、石炭蔵の跡地にガス製造所をつくることを決め、1871(明治4)年に着工しました。しかしこの前後、特に資金について高島には苦労が多かったようです。9名いた日本社中のうち、4名が前途に不安を感じ、外国商社と争うことは自分の事業の上から得策でないとして撤退していきました。さらに、資金を分担して出すよう頼んでいたあとの4名も結局は出資せず自然に抜けていき、最終的に高島は、独力でガス灯建設事業にあたることになってしまいました。彼が完成までに費やした経費は、横浜町会所よりの借入金60,000円、大蔵省より65,000円、それに自己出資金を加えて、総額200,000円にものぼっています。
市中のガス管埋設工事は1872(明治5)年7月着工し、9月に日本最初のガス灯がともされることになりました。その年の末には外国人居留地を除いた市中の街灯数は300本にも達しました。外国人居留地の点灯は2年後の1874(明治7)年12月のことで、さらに翌年の5月に100本のガス灯にあかりがつきました。その後ガス事業は1875(明治8)年7月高島嘉右衛門から横浜町会所に移され、ガス会社はガス局となりました。
電灯のはじめ
横浜に初めて電灯がついたのは1890(明治23)年のことで、横浜共同電灯会社によるものでした。当時の電灯は故障が多く、明るさもガス灯には及ばなかったので、一般に普及するにはこのあと数年かかりました。
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